柳原冨司忠氏(幸清流小鼓方) 浄慶寺報恩講での演奏・講演から


皆さんは、能をみたことがございますでしょうか?ほとんどの人が、Oh No ! (のう)・・・と答えられるかもしれません。

日本の古典文化の真髄であります能は、一昨年ユネスコの無形文化遺産に指定されました。皆さんにもよく知られていますのは、謡(うたい)かもしれません。能楽の中で、囃子方(はやしかた)・舞い方・狂言方などもありますが、謡は中でも能の基本になるものです。

今日はいい夫婦の日(11月22日)ですが、ご存知の「高砂(たかさご)」は結婚式でよく披露されるめでたい曲です。
屋島・羽衣・隅田川・足達ヶ原・黒塚などもお謡いの中でもよく演ぜられるものです。最初に披露させて頂いたものは「翁」(おきな)といいます。その一部をつとめさせて頂きました。「翁 は、能にして能に非ず」と言われています。能ではお辞儀をしません。なぜかというと能というものは一種の儀式なんです。けれども「翁」という曲に限って一番最初に出てきた太夫が深々と頭を下げます。ですから「能にして能に非ず」と言われている ゆえんの「翁」という曲なんです。

 

     
今日は私一人で演奏していますけど、本来は能を舞う舞い方がいまして、それに対する相手方のワキ方、コーラスをするじゅうたい方、後ろで装束を直したりする後見方(こうけんかた)中央にいる狂言方、それにその後ろで囃します囃子方(笛・小鼓・大鼓・太鼓)の四人がいます。

囃子方は、いつもですと笛・小鼓・大鼓それぞれ一人づつ、太鼓はその都度に入ったり入らなかったりしますが、「翁」の能の時には、小鼓方が三人も出ます。これはこの「翁」という曲だけなのです。

 

     
奈良時代に中国・朝鮮を通じて入ってきた音曲や日本の田楽・古典などと融合して散樂という形体をとるようになったのが鎌倉末期頃です。その後室町時代になり、観阿弥・世阿弥という名人が出るようになり、謡いなどがでて、能が 形づくられて行ったのです。能楽集団は座を作るようなり、足利将軍家に庇護され発展していきました。

信長・秀吉・家康などの戦国の武将もこぞって能を愛し庇護しました。江戸時代になって能楽師は侍の身分で碌を支給され、各大名に仕えました。江戸初期の観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)・金春(こんぱ る)という四流儀に加えて、二代将軍の時代になると喜多(きた)流が加わり五つの流儀の形体が整いました。武士の式樂といい、セレモニーのように使われていました。例えば都から勅旨を迎えたり、徳川将軍就任の儀式や大名のもてなしなどに、能が舞われ今のような能の形式が完成されていきました。

能楽は、現在200〜250曲ほどが残っております。室町時代には一説には2000曲ほどあったとも言われています。江戸時代に入る頃には人気のある曲は残り、そうでない曲は淘汰されていきました。

 

     
岐阜ですと、四月の護国神社での鵜篝火能(うかがりびのう)・夏の長良川の薪能も披露されています。能舞台といって専用の舞台があります。西本願寺には、能舞台が三つ もあります。鴻の間のある書院に面して南能舞台。黒書院の北の能舞台。この北の能舞台は、現存する能舞台で最古のものと言われています。また、書院の中の畳を上げるともうひとつの能舞台が出てきます。 このように本願寺は能とも関係が深いのです。

能楽師は専門職なんです。囃子方(はやしかた)小鼓方(こつづみかた)をつとめているのが、私なのです。「づつみ」ではなく「つづみ」ですね。宅急便の「小包 (こづつみ)」とお間違えのないようにお願いします。囃子について、皆さんにお馴染みのお雛さまで言えば、上からお内裏様・お雛様、二段目の三人官女、三段目の五人囃子。 そのお雛さまの五人囃子の真中に私が位置します。左から、扇を持ったお謡い方、その隣が笛、小鼓、大鼓(おおつづみ)、太鼓(たいこ)となります。この順番を間違えない為にも、左からお謡いは唄ですから口です。笛も口に咥えますね。そして、小鼓が肩に、大鼓が膝に、そして太鼓を床にで、口から下に と楽器が動くにつれて、五人囃子の並び方は、左から右にと覚えると 楽に覚えれます。これからは、お雛様の五人囃子の並び方を間違えないようになりますね。

 

 

   
鼓は胴と皮の部分でできています。鼓の胴の部分は、桜です。これはソメイヨシノではなく、山の北斜面に育った年輪の詰まった山桜の木が使われています。革の方ですが、小鼓・大鼓も馬の皮が使われています。小鼓の方は、大体一歳の馬の鞍下(背中)の皮が使えわれます。実際舞台で使われる皮は、百年近いものが使われています。二枚の皮で胴をはさんで、その間をしらべ(ひも)で結び付けます。その しらべを絞めたり弛めたりして調節し、たたき方によって微妙な調を奏でていくのです。皮の裏側を舐めることによって湿気を与えて響きをよくしています。胴の部分に絵が描かれていますが、そろぞれに趣向が凝らされています。特にいい胴ができたのは元禄時代だそうです。非常によい木があったのもそうでしょうが、元禄時代には日本文化 も能の道具も熟成され、発達したのでしょう。

音について、4種類の音色があります。硬くて小さい音、硬くて大きい音、ポンという弱い音、ポンという強い音であります。能では音よりもかけ声が重要視されます。かけ 声でその曲柄が表されます。かけ声と打つタイミングで曲の雰囲気を作っていきます。単純なんですけれども、そこがまた難しいのです。

 

     
それでは、これから「高砂」の一部を演奏いたしましょう。

〜高砂やこの浦舟に帆をあげて。この浦舟に帆をあげて。月もろともにいでしおの。浪の淡路の嶋かげや。遠く鳴尾の沖すぎて、早や住の江につきにけり。早や住の江につきにけり。われ見ても久しくなりぬ住吉の。岸の姫松いく世経ぬらん。むつましと君は知らずや瑞がきの。久しき世々の神かぐら。夜のつぐみの拍子を揃えて。すゞしめ給え。宮づこたち。西の海。あおきがはらの波間より。あらわれいでし。住の江の。春なれや。残の雪のあさかがた。玉藻かるなる岸陰の。松根によって腰をすれば。千年の緑。手にみてり。梅花を折って、首にさせば。二月の雪、ころもに落つ〜

                        高砂

※翁・高砂の音源(mp3)ファイルの著作権は、柳原冨司忠氏にあります。

 

 

 

 

 

     
 

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